遥かなスキー 【第51回】
SIAの法人化について
1977年(昭和52年)の8月、SIAは社団法人化推進委員会を設けた。兼ねてから弁護士を講師に呼び、法人格取得についての研究を続けてきた。そして、今後SIAが社会的に認められ、飛躍を期すためには欠かせない条件であると判断して行動に移ったわけである。委員会は若林省三会長を委員長に田中昇、黒岩達介の3名で構成した。
SIAのスキー教程出版
またこの年の12月には、「SIAオフシャルメソード」を出版した。長年の懸案となっていたSIAのスキー教程がここでやっと陽の目をみたわけである。
何年かその必要性について議論を重ねてきたことと、蔵王でのインタースキーが間近に迫ったことなどの状況もあり、一気に現実のものとなった。連盟が設立されてから9年がたっていた。
しかし、このオフシャルメソードも決して簡単に生まれたのではなく、見谷委員長を中心とした各委員の努力と汗の結晶ともいうべき労作なのである。本のできについてはいろいろな意見もあるが、一匹狼の集まりと言われたSIAがこの仕事を成し遂げた意義は大きく、周囲に対し出した答えだったのかもしれない。私はこの時点で、SIAの基盤がある程度確立されたと思う。そして、将来も存続しうる団体として、一歩階段を上ったように思った。
インタースキーの準備
開けて1978年、インタースキー開催まで1年と迫り、各部門の活動や現地蔵王の準備作業はピッチをあげはじめていた。
そんな一つに、開催国日本のデモンストレーション問題があった。通常、参加国はひとつのデモンストレーションを決められた40分の中で演技することになっている。しかし、開催国には,特権として、3時間の枠を与えている。この時間を日本としてどのような内容に構成するかが、難しい問題となった。
1965年のバド・ガスタインのインタースキー以来、日本のデモンストレーションをしてきたSAJの立場と、歴史こそ浅く小さな組織とはいえ、その思考する方向が国際的に認められつつあるSIAとの立場が絡んだ問題であった。根が深く、複雑な経緯を辿った問題だけに、まさに紆余曲折そのものだった。
そんな経緯のさ中の4月、恒例のSIAフェステバル78で招待したカナダ、アメリカ、ニュージーランドの代表が思わぬことを言い出した。ISIAに加盟しているSIAがデモンストレーションができないようなら、私たちは蔵王のインタースキーに対し、何らかの意思表示をしなければならない。と発言する一幕があった。
そんな事態にまで発展しては大変である、と運営に携わる立場の意識が働く一方、環太平洋諸国のこうした助言は心強い支えとなったのも事実である。
最終的には、SIAも「ポールの指導法」を発表することで話し合いがつき、インタースキーを迎えた。
まさかの出来事
こうしてインタースキーの準備に忙殺されているなかに想像もしていなかった連絡が届いた。それはオーストリア共和国より勲章をくださるという内容だった。スキーを通じてオーストリアのために尽くしたということで、SAJの伴素彦会長、高鳥修副会長(衆議院議員)、法政大学教授の福岡孝行先生、それにSIAの黒岩達介氏と私の5名だった。全く想像もしていなかったことであり、何で私がーと正直理解に苦しんだ。
9月7日がその受賞の日だった。それぞれ受賞者の関係者が招待されたオーストリア大使館で行われた。私の場合も母をはじめ、家族が参列した中で、フランツ・ヴァイデンガー大使から勲章を胸につけていただいたときの高鳴りと、緊張感はこれまでに経験のないものだった。一瞬、息がつまり、時が止まったかのような感じがしたのを鮮明に覚えている。そして、何故か私にも受賞に対する挨拶をーと前もって大使館からの連絡もあり、用意した挨拶を読み上げるのに緊張で、空中を浮遊している感じだった。
受賞祝賀会
この受賞に際し、寛仁親王殿下が自ら代表発起人として私と黒岩達介氏の受賞祝賀会を開催していただいた。大手町の皇居お堀端のパレスホテルで大勢の方々にその受賞を祝っていただいた。その時の記念品として、みなさまよりローレックッスの時計をいただいた。こうした盛大な祝賀会を用意していただくだけでも私にとって例のないことだった上に、寛仁親王殿下じきじきに発起人までしていただいたことは、全く想像を超える出来事でまさに我が人生の最高の一日だった。
長野からは、菅井良太さん(元長野電鉄スキー部監督)もわざわざ駆けつけてくださり、想像を超える多くの皆様に晴れの場を盛り上げていただいた。終生忘れることのできない、オーストリア共和国からの受賞だった。そもそもチロールは私の「第2の故郷」だと思っていたそれだけに、これからの人生において、オーストリアのために何かお役に立てるよう歩まねば,と心に誓った。
インタースキー開幕
蔵王でのインタースキー日本大会は、1979年(昭和54年)1月28日から2月4日の日程で開催された。この年の雪不足は深刻で、特に蔵王はひどいものだった。現地実行委員会は、急遽スノーマシーンを導入するなど思わぬ出費を強いられた。私たちは1月16日から現地入りをしたが、デモンストレーション斜面にはこぶし大の石がごろごろ露出している状況に正直頭を抱えた。非常に幸運なことに我々の到着した翌17日から雪が降り始めた。そして、その翌日、18日にはISIA会長(国際職業スキー教師連盟)でスイス代表団長のカール・ガマー氏から国際電話がかかってきた。「情報によると蔵王は雪不足だそうだが、インタースキーはできるのかね」「中止になるのではないか」といった問い合わせだった。勿論「雪の少ないのは事実だが、降り始めたので心配ない、すべて予定通りだ」とやりとりをした。
開会式当日は、素晴らしい快晴に恵まれ、雪の斜面と青空のコントラストがまぶしいなかで、皇太子殿下,同妃殿下の御臨席をいただき、盛会のうちに終了することができ、胸をなでおろした。
世界中から集まった23ヶ国、1000余名のスキー仲間は蔵王の施設、運営に感嘆の声をあげていた。また、心配されていた、宿泊部門も、各ホテルの心のこもった歓待に感謝の声が私のところにもとどくなど、十分東洋の旅情も楽しんでいただけたようだ。
1975年、チェコスロバキヤで日本での開催ガ決まってから、準備委員会での会場決定、実行委員会での諸準備と運営など、振り返るといろいろなことがあったにしては、あっつという間に過ぎてしまったように思う。それは、大勢の遠来の仲間に喜んでいただいたことにより増幅されたのかも知れない。
いずれにしても、スキーに関係する一人として、40歳半ばでこんな大きな行事に関わることができたのは非常に幸運だった。
(2011/5/24更新)