【連載第15回】

記者を泣かせた滑降優勝

鉄道員としての勤務にも慣れ、少しずつ板についてきた。

それでも
「ユダナカー、ユダナカー、シュウチャクエキ,ユダナカデゴザイマス。オワスレモノノナイヨウニーーーー」
と言ったアナウンスを担当したときは、震えて声がでなかった。

見えないところで、視線を気にせずに一方的にしゃべるだけだのに、どうにもならなかったのが不思議だった。

このころは大会でノルデイック、アルペン種目とも好成績続き、更に次の目的に向かって意欲がわくといった上昇ムード一杯の時期だったので、夏のトレーニングもみんな非常に元気に張り切っていた。

スキー部の菅井監督は、若い頃陸上競技の選手をされたことがあったそうだが、スキー選手としての経験は全くなかった。

小出さんも経験もなかった。しかし、菅井さんと小出さんのコンビでチームのバランスをとても上手く保っていた。

つまり、菅井さんは煙草、酒を飲まない生真面目なタイプで、一方小出さんは酒を飲み、豪放磊落といった正反対ともいえるタイプだった。

一人が締めると、一人は緩めるといった絶妙の関係にあったと思う。そして、スキー技術面よりも、心理面でのコントロールをより重視して、我々チームの若い選手をコントロールしていたように思う。

この頃の長電スキー部には、「禁酒、禁煙、禁パチ、禁女」という合言葉があった。禁酒、禁煙と禁女は説明の必要はないが、禁パチとはなんですか、と外部の人から聞かれたものだ。
パチとはパチンコに代表される賭け事を指していた。
20歳を少しでたばかりの若い者の集まりに、スキー競技という共通の目的があったとはいえ、かなり思い切った発想だった。
それは、スキーの世界で他人よりも強い選手になりたければ、強いチームであるためには、こうした節制が欠かせない条件だということだった。
そうしたことにも、チームとしては、正面から受け止めスキーに熱中した時代だった。

駅に勤務しているとき、終電車が入ると仲間で良く飲みに行っていたのを見ているが、駅の仲間は決して我々スキー部の関係者は誘わなかった。
そういう意味では、周囲が暖かく、見守り、本当の意味での応援をしてくれていたのだと思う。
そうした環境つくりは菅井監督、小出コーチがやってくださったのであろう。

明けて昭和29年(1954年)のシーズンは暖冬異変で、1月29日から31日に平穏(現在の山ノ内町)で予定されていた長野県大会は中止された。
我が長電チームは県内の大会もさることながら、それよりも全日本選手権大会に照準を定めていた。

この年の大会は、ノルデイック種目は新潟県高田市で、アルペン種目は赤倉温泉で開催された。

長電アルペンチームには、白馬村八方出身で明治大学を卒業した中村孝光君も加わっていた。
中村君は現在八方のオリンピックジャンプ台に近い、ホテル五竜館の社長である。
また、小出さんのほかに、その後長野電鉄の社長を務められた神津昭平さんもアルペンチームの手伝いに来ていた。
泊まった宿は、赤倉の次井旅館だった。次井震さんは以前、世界アルペン選手権大会に出場したことがある大先輩である。

前年上位入賞をしているだけに周囲の目は、良きにつけ悪しきにつけ強者をみる目がそこにはあった。
しかし、私の心のなかでは、たった1年の実績が果たして実力なのかどうかの不安が渦巻いていた。

丁度世界選手権大会がスエーデンで行われていたため、斉藤 貢、茂原博太郎の両選手が不在であった。それでも大学生では抜きん出ていた湯浅栄治選手、社会人では北海道東洋高圧の金丸睦郎選手をはじめ手強い相手が目白押しだった。

そんな状況だったのに、競技が始まったらいきなり滑降競技で2位を7秒も離して優勝してしまった。回転競技なら何がしかの期待をする人がいたかもしれないが、滑降は論外だった。

その滑降競技にこともあろうに大差で勝ってしまったわけだ。
そんな訳で報道カメラマンは写真を撮っていなかった。
次井旅館に戻ってから、記者やカメラマンが取材に押しかけてきた。そして、玄関前の暖斜面でクローチング姿勢をして、わずか20mほど滑って写真を撮った。
翌日の紙面で報道されたが、なんとも迫力のない写真に苦笑いをしたものだ。

報道関係者を泣かせた優勝だった。

予想外の優勝に次の回転競技には、心理状況としては最高の状態でのぞめた。
そして、回転競技では、1回目、2回目ともラップタイムで問題なく優勝をしてしまった。

2位は練習をともにして、宿も一緒だった湯浅栄治さんが入った。このときは前年と違って、1回目のラップタイムも2回目までの凡そ3時間の時間もさしたる問題はなかった。

やはり大湯温泉での経験は貴重なものだった。

こうして思いがけず2種目に優勝すると、なんとも世界選手権大会出場組の不在が心の片隅で気になった。同じ勝つなら、みんな出場しているときに勝たなくては、と。

また、この優勝を報じる新聞社のグラビア写真が日本中の駅に張り出された。「長野電鉄の杉山2連勝」と報じられたので、会社の幹部から褒められたことも記憶に残っている。

この年、2月24日から28日には生まれ故郷野沢温泉で、第9回国民体育大会が待っていた。
全日本選手権で2種目制覇したという実績と、地元出身ということもあり、期待度は大きく跳ね上がっていた。

一本杉上部からスタートして、シュナイダースロープを滑り、日陰ゲレンデまでのコースが使われた。このコースは後半の大斜面がゴール付近から良く見え、観戦しやすい恵まれた地形になっていた。

競技では、一本杉の尾根筋を快調に滑ってきたのは良かったが、シュナイダースロープの上部で大きくはみ出してしまった。
2,3歩登ってコースに戻り、それからは失敗を取り戻すべく積極的に滑ってゴールした。
調子の良いシーズンだっただけに、そんな失敗をしても3位に入賞することができた。
優勝は東洋高圧の金丸睦郎選手、2位は新潟県松の山温泉出身で慶応大学の丸林選手だった。

今の時点で振り返ると、勝っては慢心し、負けては初心に戻り、するとまた勝つ、といったことを競技生活の最後まで繰り返してしまったように思う。

この年の春、1948年サンモリッツで行われた第5回冬季オリンピック大会の滑降競技と新複合でゴールドメダリストになった、フランスのアンリー・オレイエが、時のインタースキー会長のピエール・ギョー博士とともに来日した。
彼らの来日目的は、当時の国鉄(現在のJR)の招待によるもので、国内のスキー普及をねらった国鉄の販売促進策の一環だった。

日本各地でフランススキーの講習会を開いた後、北海道の小樽で国際親善スラローム大会が開催された。
この大会には、全日本選手権大会のランキング5位までの選手が招待された。
招待者が国鉄ということもあり、私の住む長野と小樽間の無料往復乗車券が配布された。
列車は太平洋側、日本海側どちらでも好きなルートを選べ、かつ、2等車だった。2等車とは、現在のグリーン車のことだ。
現在の普通車は当時3等車といっていた。通常では乗れない2等車で、王侯貴族にでもなった心境で北上した。

競技は天狗山で行われた。
ここでまた、私が優勝し盟友の湯浅選手が2位、オレイエ選手は4位だった。このときの関係者によれば、優勝カップは海を渡ってフランスへいくのだからと、銀製の上等なもので、さらに運びやすく小さなものを用意したそうである。

それが、海は渡ったが、本州までで私のところにきてしまったわけである。

こうして、1953−54シーズンは、自分自身でも全く予想をしていなかった好成績を収め終了した。この年の成績と自信が、その後の競技生活のバックボーンとなったと言って間違いないであろう。


(05/10/25更新)

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