【連載第16回】
長野電鉄と長野林友の名勝負
ホップ、ステップ、ジャンプと3段飛びのような、好成績を残せた1953年―1954年のシーズンも終わり、丸池スキー場勤務から湯田中駅に戻った。

敗戦後8年のこの頃は、日本各地でキャンプ場が非常に流行った時代で、長野電鉄が木戸池でキャンプ場を経営していた。
私は所属する湯田中駅に戻っても、間もなくその木戸池のキャンプ村の運営、管理に従事するため志賀高原に登った。
キャンプ村は7,8,9の3ヶ月だけの営業だったので、鉄道員としての仕事は春と、秋だけだった。
木戸池キャンプ村では、関恒太郎さんが村長で、その下で私は「助役」と呼ばれていた。
鉄道の駅における助役はとても遠い存在だったが-----。
ここのキャンプ村には、100張りのテントと50棟ほどのバンガローが、木戸池が見える白樺林の斜面に点在していた。
現在は、ホテルを始め、施設が整備され、道路も舗装されているが、終戦後10年の当時は砂利道で、この種のキャンプ場に多くの若者が集まってきた。
都会の若者が、涼を求めて集まる場所だから、そこには、恋あり、喧嘩ありで、気の抜けない毎日だった。
海抜1600mの高原での夏は快適な涼しさだったが、気分的には暑い夏を過ごしていたことになる。
ついにオリンピックへの切符を手に
昭和30年(1955年)のシーズンに入り、年毎に力をつけてきた長野営林局チーム(昭和29年から林友を営林局に改名)との総合得点争いは熾烈を極めてきた。
この年2月4日から7日に野沢温泉で開催された長野県選手権大会ではついに、つかまってしまった。
私は滑降で優勝、回転で2位と比較的順調な成績だったが、両チームの激突は各種目で目を見張るものがあった。
チーム結成以来、2連勝していた我が長野電鉄チームは、結局、長野営林局チームの51.5点に対し、2点差の49,5点で敗れ去った。
このころを起点とする両チームの激しい優勝争いは、その後の長野県スキー史の残るものだったように思う。
この頃は、現在のように海外遠征もなく、国内での競技会も少なかった時代だった。
翌年の(1956年)第7回冬季オリンピック大会出場選手を決める予選会としての全日本選手権大会に向けての準備、調整が全てだった。
その大会のノルデイック種目は札幌で、アルペン種目は富良野(2月24日―3月1日)で行われた。
現在の富良野は日本を代表する立派なスキー場の一つになっているが、当時は北の峰といい、全国大会は初めての田舎のスキー場だったと記憶している。
長野電鉄チームは、中村孝光、大田金雄両君と3名だったが、宿泊旅館は勿論、全ての行動をともにしていたのが、湯浅栄治選手だった。
湯浅さんのアドバイスもあり、さしたる練習もなく、殆ど調整の毎日だった。
一般に競技日が近づくにつれ、練習をしている他の選手が上手く見え、つい自分のペースを乱してしまう例が多い。
したがって、前年度の実績を背景にした余裕と、心理的な要素を意識的に考慮した調整に徹していたわけだ。
結果は滑降で10位と褒められた成積ではなかったが、悪いながらもこれよりも下位でなく救われたのかもしれない。
回転競技は、前年に引き続き優勝した。何にもまして、斉藤 貢、茂原博太郎両世界選手権大会出場選手を破っての優勝に大満足だった。
この頃が私の競技生活を通じて最も調子が良かったときだったのかもしれない。結果だけを見ると、いとも簡単に勝ったようだが、心理的には重圧とのたたかいだった。
小出コーチ、湯浅さん、中村、大田チームメートの目に見えない支援、協力も忘れられない。
海外遠征の選手選考方法はその都度違っていたように思う。
この年は、大会終了後すぐには発表されず、春に行われるオリンピック候補合宿も選考対象とすることになったらしい。
その合宿は野沢温泉で行われた。
それこそ、一本一本の滑りに全神経を集中させて、緊張の連続だった。
合宿中も好調を持続することができたので、もう大丈夫であろうと思うものの、発表までの3ヶ月弱は不安がなかったといったら嘘になる。
当時の選考過程に影響力のある人の多くは大学関係者だったことも心配の材料だった。
また、ノルデイック、アルペン種目を問わず、日本のトップに君臨していた選手の多くは大学生が中心だった時代でもあったのだ。
現在はアルペン種目の選手をスピード系、技術系と分け、更にそれぞれ複数の選手を派遣するようになっているが、当時は渡米中の猪谷さんを除いて、長距離、飛躍、複合、アルペンでそれぞれ1名という枠しかなかった。
つまり、各種目のランキング1位だけしか選ばれない狭い門だった。
落ち着けない春から初夏までだったが、6月下旬に朗報が届いた。
「夢にまで見たオリンピック」が現実のものとして、しっかりと自分の手にすることができたのだ。
なにか一つの大きな山を登りつめたような思いだった。
当時の日本の鎖国的状況を考えると、海外に出ることで目的を達したような気分がなかったかといえば嘘になる。
勿論心の一方では、オリンピックでよりよい成績を残せるように目標を持つべきだーと心に言い聞かせてもいた。
当時は、現在のように自由に海外に出ることが許されなかった時代だった。
海外に出れる人は、役人か、貿易関係者か、または国を代表してのスポーツ関係者に限られていた。
日本代表のスキーチームは、アルペン監督に野崎 彊さん、ノルデイックコーチに久慈庫男さん、選手には、飛躍の吉沢広司さん、複合の佐藤耕一さん、距離の宮尾辰男さん、そして、アルペンはアメリカ在住の猪谷千春さんと私の7名だった。
(2005/11/5更新)