【遥かなスキー33回】

デイプロマを追い続けた20週間

オーベルトラウンで第一歩を踏み出した

いよいよ1963年10月、オーストリア国家検定スキー教師養成コースの一般教養課程が始まった。
その場所は、1年前ひと夏過ごしたクリッペンブルン滞在中、毎日のように前を通っていたオーベルトラウン国立スポーツ学校だった。
土地勘があり、多くの友人知人がいる場所だったのは幸運だった。
受付でもこの一般教養課程の責任者、フランツ・ホピヒラー教授の顔がみえたので一安心。
ホピヒラー教授の女性秘書のイルミガルト嬢の姿もあり、何かと便宜を図ってもらえ助かった。

私自身の精神状態は、何とかなるだろうと、といった楽観論と駄目なら仕方がない、といった悲観論が交錯していた。
ただ、自分から希望しても参加出来るはずもない、スキー教師養成コースへのチャンスをつかめたのから、最後まで頑張ろうと心の片すみでは決意していた。
まず、当時のオーストリアスキー教師の検定制度について述べておかなければならない。

ヒルフス・シーレアラー(助教師)そして次の段階ランデス・シーレアラー(州検定スキー教師)と呼ばれるカテゴリーがあった。
そして、シュタットリッヒ・ゲプリューフト・シーレアラー(国家検定スキー教師)へとつながっていた。

州検定スキー教師はその名前のとうり、各州ごとに検定を実施していて、18歳以上に受験資格があった。
この州検定教師の養成コースには1962年11月、オーバーグルグルでのチロル州検定会にオブザーバーで10日間参加したことがあった。(はるかなスキー第29回に記述)

この州教師の検定を受けるためには、助教師の資格をもった者たちが、全国に点在するスキー学校働き、スキー教師としての技術、指導法などを学び、次に国家検定スキー教師養成コース入学試験を受けることになる。
そして、その入学試験に合格した者のみが、最上級の国家検定スキー教師養成コースへと進む仕組みになっていた。
私は州スキー教師は勿論、助教師の試験も、更に国家検定スキー教師入学試験も受けないで、いきなり最後の養成コースに入ったことになる。
かなり変則的な扱いをしてもらったことになる。
ただし、建前論として筋を通す意味だったのか、チロル州職業スキー教師連盟から州スキー教師の身分証明書が送られてきた。

私の知らないところで、こうした好意が積み重なって国家検定スキー教師養成コースに参加できるようになった。
かなりな無理が通ったのも、クルッケンハウザー教授を中心として、ホピヒラー教授、ルデイ・マット氏(当時、チロル州とオーストリア職業スキー教師連盟会長)などの力添え以外のなにものでもない。

この年、(1963年)オーベルトラウン国立スポーツ学校に集まった国家検定スキー教師養成コースの(以下、養成コースと略す)仲間は120名、約半数はチロル州出身者、他の半数がサルツブツグ州、ケルンテン州、シュタイヤーマーク州などからの若者たちだった。

若者といったも30歳を超えた者が4,5名いて、25歳前後の若者が最も多かったろうか。38歳が最高年齢者だった。女性も6名いた。
坊主頭に近かった私は、いつも20歳をでたばかりに見られていたが、31歳と説明するとみんな目をむいて、本当かといわれたものだ。
彼等の職業は、農業、大工、左官、山岳ガイドといった職種が多かったが、なかには民宿やホテル経営者、また毛色の変わったところでは警察官も一人いた。
一般的にスキー教師は冬だけの仕事なので、夏の仕事をもっている人だちが、年間を通じて生活の安定を図るために選んでいると考えて間違いない。
夏にオーストラリア、ニュージーランド、南米などの南半球に渡り、冬は北半球に戻る方法で年間を通じてスキー教師の活動をしている人たちもいたが、それはごく一部の例外である。

養成コースは図を見れば分かる様に大きくは1年目と2年目に分けられる。それぞれ、一般教養課程(10,11月に6週間)と実技課程(12月に3週間)実施されている。
1年目と2年目の間にくる4月には、高山での山岳スキー理論と実技(2週間)が実施されていた。
これが国家検定スキー教師養成コースの全貌である。

もう少し整理をすると、1年目の一般教養課程(6週間)実技課程(3週間)、
高山などの山岳スキー(2週間)と2年目の教養課程(6週間)、実技課程(3週間)の順になる。

15カ月の間に合計20週間の授業と試験が繰り返されるわけだ。



3週目に立ちふさがった言葉という大きな壁

オーベルトラウン国立スポーツ学校は3棟の宿舎、200席の大きな食堂と管理棟、それに会議場、さらに研修室と体育館、全ての陸上競技関係施設、サッカー場などの素晴らしい施設をもち、それらが針葉樹林の中に点在している。
部屋にしても、4人部屋ではあるが、2段ベットではなく、更に寝室と居間が別々になっていた。
日本のこの種の施設では、とても考えられないものだった。(1963年当時としては)

周囲の環境も、山あり、川あり、そして美しい湖ありと、全くこれ以上は望みようもない立地条件にあった。

スポーツ学校という名称から想像すると、年間を通じて学生が勉強をするところと思えるが、そうではなく各種スポーツ団体が合宿練習に利用する場所となっていた。
ただし、国を代表するチームなどの利用が原則のようだった。
例えば、オーストリアアルペンナショナルチームの陸上トレーニングなどにも使用されている。

養成コースでは、スキー指導法、解剖学と救急法、氷河学、雪と雪崩学、地図の読み方と山地における行動、ザイルの使い方と実技、体育学、それに英語または仏語といった選択課目があった。
それぞれの分野の先生が担当教師として期間中スポーツ学校に滞在していた。
1年目の養成コースの責任者は、フランツ・ホピヒラー教授だった。

クルッケンハウザー教授は、養成コース全体の最高責任者としての立場であった。
当時からホピヒラー教授は、クルッケンハウザー教授の後継者と目されていた。

その後、予想とおりに、ホピヒラー教授がその立場を引き継いだ。後で分かったことだが、彼は私と同い年だった。

31歳の年齢で1年目の養成コースの責任者として活躍していた訳で、国によって国民性、風俗、習慣の違いがあるとはいえ、ギャップを感じたところだ。

解剖学と救急法はスポーツ医学の権威者、プロコップ教授が担当していた。

この教科だけは、教授が同時期に開催されていた2年目の授業との掛け持ちの関係で集中講義が行われた。
ドイツ語学校で勉強したとはいえ、生まれた時からドイツ語で育ってきた者たちのなかに入ったのだから授業は大変だった。
たった一人の外国人のために授業内容を変えることなどありえないわけで、一時は自分の力もわきまえずがむしゃらに飛び込んだことを悔やんだこともあった。
それでもやれるところまではやってみようーと言う心境だった。

同室の仲間が寝室に入った後も、12時、1時まで毎晩辞書と首ッぴきだった。
解剖学や救急法のテキストなどは,毎頁20−30の単語を調べなければならなかった。

さらに私にとって選択課目の英語も負担だった。
仲間達は母国語(ドイツ語)の他に英語か、仏語のいずれかを勉強しているのだが、私にとっては、ドイツ語も英語も外国語だった。

始まって3週目ころだろうか、とてもこれではもたないからやめようかと思った時があった。
それは、たまたまクルッケンハウザー教授がスポーツ学校を訪ねてきたことで誘発された。

「もうとても駄目です、やめたい。」

「どうして、また」

ク教授の静かな声が返ってきた。
「折角、先生の推薦とお力添えでこの養成コースに入れていただいたのですが、このままやっても、不始末な結果になり、先生にご迷惑をかけるだけだと思います」

「苦しくて、大変なことは分かるが、結論を急ぐことはない。もう少し頑張ってみなさい。私も何かいい方法を考えてみよう。」

そして、「君は日本語が母国語としてあるので、英語をやらなくてもいいよ、免除しよう」

と言われた。
久し振りにク教授と会え、もやもやしたものを全部吐き出したせいか、その後は立ち直れ元気になった。

毎週末、殆どの仲間は車で家に帰り、日曜日の夜か月曜日の朝までにスポーツ学校に戻ってきた。
ところが生活のリズムを変えようのない私は、四六時中辞書と首っぴきという環境におかれた。
それも原因だったのかもしれない。

最初の3週間が終わると、後半の3週間へ進む前に1週間の休みがあった。
たまたま翌年の東京オリンピクを前に欧州の陸上競技関係の取材にきていた朝日新聞社の野崎彊さん(私が出場した1956年コルチナオリンピックの日本チーム監督)の好意で一緒に旅行をした。

野崎さんはスポーツ学校まで迎えに来てくださり、10月25日から11月1日までベニス、ステルフサーヨッホ(イタリアの氷河スキー場でオーストリアナショナルチームが合宿中だった)、ダボス、ジュネーブ、パリと連れて行っていただいた。

最後は、パリから11月1日の夜行列車でスポーツ学校に戻った。

そうした気分転換もでき、後半は少しリズムを取り戻せた。
後半は2週間の講義の後、最後の1週間は連日試験に明け暮れることになった。

スキー指導法の試験は、ホピヒラー教授の口頭試問だった。
私への出題は、「シュテムシュブングの基本型と完成型の違いを述べよ」(横滑りと山まわりシュブングの違いを述べよ)「斜滑降を指導するときの練習種目の順序を述べよ」といったものだった。
心配していた解剖学と救急法なども自分の予想よりも、はるかによい結果で終わることができた。

それにしても試験制度の合否の発表ほど厳しいものはない。
合格して微笑む者、力なくうなだれる者と、悲喜こもごもでそれまでの表情が一変してしまう。

この一年目の一般教養課程で一課目を落とした者が全体の20%,二課目落とした者が5%いた。それでも彼等にはその場で追試を受けるチャンスが与えられた。
もしも、この追試で落ちると、翌年もう一度同じコースを受けなければならない制度になっていた。

全日程を消化すると、最後の夜は関係した先生を招待して食堂でにぎやかなさよならパーテイーが開かれた。
受験者で即席のバンドが編成され、歌って踊って,飲んで底抜けに明るい大騒ぎを繰り広げた。
みんなにとっては、不得手な一般教養課程が終わった開放感と、これからは得意な実技課程で雪上にでられる喜びが交錯していた。

このパーテイーでは、養成コース期間中に生まれたホピヒラー教授の長男ルデイー君の誕生パーテイーも併せて行った。
現在はそのルデイー君も44歳、アルゼンチンの女性と結婚して、南半球と北半球を往復しているのを見ると、時の流れを感じる。

2007年3月15日記

(07.3.19更新)

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