遥かなスキー 【第50回】

2期目の理事長就任

スペインでのISIA総会後の6月29日にSIA定時総会が開催された。そこで私の2期目の理事長就任が決まった。

SIAの夏季における各種行事の開催場所も時代によって変遷してきた。

最初は鎌倉の材木座の海岸にほど近い光明寺で行われた。全員が本堂での雑魚寝であった。
御住職に法話をお願いしたり時代が違ったは言え、現代では想像を超える内容だったように思う。

次に、行われたのは小田急沿線の読売ランドだった。

そして、現在もよく利用させてもらっている、代々木のオリンピック青少年総合センターへと開催場所が移っている。

SIAも設立8年、この種の行事の開催会場を振り返ってみても、それなりに成長を続けた跡が感じられる。


インタースキー準備事務局

昭和51年(1976年)12月20日、それまで開催地選定を中心にすすめてきたインタースキー準備委員会を解散し、正式に第11回インタースキー日本大会実行委員会が発足した。

会長には、インタースキー日本代表理事でSAJ(財団法人全日本スキー連盟)副会長の高取修先生(衆議院議員)が就任された。
実行員会は、開催地山形県、山形市、蔵王温泉をはじめ、SAJ, SIA関係者で構成された。

日本体育協会 507号室

私も立場上お手伝いをすることになり、事務局長の職名をいただいた。SAJの伊黒正次専務理事が事務総長に就任され、その補佐役として事務局全般をみる仕事である。

日本体育協会の507号室が事務局と決まり、電話を引き、事務机を買い、2名の事務職員も雇い、いよいよ本格的な作業に入った。

事業年度も1期、2期、3期と3年間に分け、5月31日を年度末と定め。事業計画と予算案の作成を行った。
その時の予算総額は地元関係費を除いて、3億円弱となった。

地元負担金など収入見込みのはっきりした額の他は、全て実行委員会で捻出しなければならないものだった。

この時点では、楽観論と悲観論が相なかばしていた。

しかし、目標は定まったわけでもあるし、諸外国に対しての約束もあるので、いまさら悲観論を振り回しても問題解決にはならない。
地元山形県、山形市も万全な態勢で準備に取りかかりはじめた。

そんな関係で、私もインタースキー終了まで事務局勤務となった。

毎日午前10時には507号室に出勤し、夕方5時まで体協、それから銀座にある自分の店、事務所を回るという変則、かつ厳しい日々となった。
当時私は杉山進の店、スギヤマトラベル、長電スキーセンター(奥志賀スポーツハイム、杉山スキースクール)の仕事をもち、さらにSIA理事長としての立場といくつもの役割があった。
幸いそれぞれの会社は「人」に恵まれ、その間の仕事は支障なく運営されていた。しかし、多少なりともその後遺症が残った部分もあった。

オーダーマット会長の招待

実行委員会が発足して最初の仕事は、インタースキー会長のアドルフ・オーダーマット夫妻の来日計画だった。
それは、決定した蔵王会場を最高責任者に視察をしていただくことだった。同じ来日していただくのなら、インタースキーの開催予定期間とほぼ同じ日程がよいだろうと、1月27日に来日し、2月6日の帰国と日程が決まった。

蔵王で開催した実行委員会理事会をはじめ、雪上でもオーダーマット会長のご意見を様々な角度から聞く機会を持てたことは、その後の準備に非常なプラスになったことはいうまでもない。ただ、蔵王滞在中天候の悪かったのが心残りだった。

蔵王の視察の後、私がお供をして仙台から札幌に飛んだ。
巨大な雪の芸術の数々が立ち並ぶ札幌大通公園の雪まつりには驚嘆の声をあげられていた。

そいて、夜は北海道スキー連盟の伊藤会長ご夫妻とSAJ藤沢伸光理事の歓待を受け、とても喜んでいただいた。
インタースキーが確かな手ごたえとなったオーダーマット会長夫妻の来日だった。

亀倉雄策先生のシンボルマーク

それからまもなく、グラフイックデザイナー界の大御所、亀倉先生のデザインによるインタースキーのシンボルマークが発表された。
ところが最初にできたマークがアメリカの航空会社のシンボルマークに類似しているという指摘があり、再度デザインをし直していただいた。
亀倉先生は、大のスキー愛好家として知られ、年齢を感じさせない若々しく、かつ、非常に基本がしっかりした滑りをなれる人だった。

山形県庁内に現地事務局の開設

開催地蔵王の準備を円滑に進めるため、山形県庁内に事務局も開設され、まず、施設面の整備が進められた。東京の事務局は、対外的な窓口と現地事務局とのコーデイネーとの役割、立場にあった。

そこで、月に1回を目途に実行委員会理事会を開催し、さまざまな業務の進行状況と、次の対策について検討を重ねる方法をとった。
それぞれ理事の出身母体の異なることもあり、一方を立てると他方に問題が生じるといったことがしばしばあった。

しかし、全体に関係者がお互いに協調をして、紆余曲折を経ながらも、絡んだ糸を解きほぐすように前進を続けた。

SIAフェステバルの招待国ドイツ

SIAでは1977年4月開催のフェステバルに西ドイツ(この当時、ドイツは西と東ドイツがあった)チームを招待した。

3年連続の外国チーム招待は、少なからず日本スキー界に新風を送り込む役割を果たしたものと思う。と同時に私たちSIAの会員諸兄姉が広く海外に目を向ける素地が生まれるきっかけにもなった。

これから益々国際化がすすむであろうことを予測すると、こうした若い人たちの海外飛躍は、必ず後日大きな力になるものと信じている。

自画自賛になるが、イタリア、オーストリア、西ドイツと3年連続、ヨーロッパアルプスのスキー先進国を招き勉強した意義は想像以上に大きな成果があったものと思う。

ISIA総会はカナダ、バンフで

この年のIEIA年次総会は、5月29日からカナダのバンフで開催された。
私にとっては初めてのカナダの旅であるものの、英語のできない私にはアメリカと同じくあまり楽しくない国であった。

しかし、ヨーロッパアルプスと違って、未開発の魅力と自然の大きさには人を圧倒するものがあった。
歓迎野外バーベキューの会場の3,40mのところに野生の大きな熊が
現れたのにはびっくりさせられた。

この総会では、ISIAの加盟国が同じレベルで検定を実施する制度、テストインターナショナル」の実施が決まった。
これは国際的に共通した技術検定が必要である、といった認識が合意した結果である。

特にヨーロッパ諸国のように陸続きで国境を接している国々にとっては、かなり関心の高い問題だったようである。
勿論、私たちSIAも実施国の仲間入りをした。

インタースキー理事会が西ドイツで

カナダでのISIA理事会から帰国したのが、6月2日だった。

それから10日ほどした14日にはインタースキー理事会に出席するため西ドイツのバード・ヴイスセーにむかった。

高鳥修実行委員会会長を団長に、山形県副知事、山形市助役をはじめ、SAJ, SIA関係者で代表団が構成された。

バード・ヴイスセーは西ドイツのミュンヘンから南東のババリアアルプス山中で、湖と山をもち観光地としても知られたところである。
また、ワールドカップのナイタースラローム大会を開催しているところとしても知られている。
我が猪谷千春選手が現役時代に活躍したところとして、町長の挨拶にも紹介された。

ここで、それまでの準備状況と今後の計画の概要を説明した。また、立候補のときの約束の一つだったチャーター便が諸般の事情で不可能になったため、団体航空運賃の提示をするなど、かなり詳細にわたって説明をした。

理事の皆さんも日本の準備状況に一定の評価をしていただいたように思った。まずは順調なスタートだった。

理事会終了後、山形県関係者と同じ西ドイツの1936年第4回冬季オリンピック大会開催地だった、ガルミッシュ・パルテンキルヘンとジャンプ台で有名なオ―ベストドルフの会議場施設などの視察をして帰国した。

 ('08.9.16更新)